実家で飼っていた猫のモモ(仮名)が亡くなってから2年近くが過ぎました。寂しさのあまりこのブログにもその気持ちをつらつらと書き連ねていたのですが、月日の過ぎるのははやいものですね。
モモのいない日常がすっかり当たり前になりましたが、最近ふと思うのです。モモは今も日常の様々な局面で私を癒してくれているのだなということを。
写真を見ると幸せな時間を思い出す
モモが我が家に来たのは生まれて2、3か月の頃。それからの15年間、その可愛さのあまりにことあるごとにモモの写真を撮っていました。
窓辺で外を眺めている姿。
カーテンをよじ登る姿。
障子に猫パンチをする姿。
へそ天で昼寝している姿。
それらの写真がGoogleフォトのおすすめで出てくることがありますよね。すると、それをきっかけにしばらくはスマホのモモの写真を見るのがとまりません。
あの窓辺のところはお気に入りでよく座っていたなあ。鳥が飛んでいるのを見たら窓ガラスにひょいひょいと手を伸ばしていて可愛かった。
1才になるまではよくカーテンにも上っていたなあ。体が軽かったからできたんだろうけど、それでも爪の跡で一時はカーテンがビリビリだったのが懐かしい。
写真をきっかけにして幸せな思い出が次から次へと出てくるのです。
仕事で疲れたり人間関係が上手くいかなかったりと生きていればあれこれありますよね。そんな時にモモの写真を見ると心が一気に癒されます。
名前を呼ぶとアーッと叫びたい気持ちを断ち切ることができる
皆さんは日常生活の中で過去の失敗を思い出してアーッと叫びたくなることがありませんか?
自分に話しかけられたと思って返事をしたのにそうではなかった時。髪をバレッタで止めていたら毛量に負けて突然はじけ飛んだ時。職場に誰もいないと思ってご機嫌で歌っていたら実は人がいた時。会議中に必死に我慢していたのにお腹が盛大に鳴ってしまった時。
別にその出来事が昨日あったわけではないのです。なかには20年以上前にあったことにも関わらず、何かの拍子にふっと思い出して恥ずかしさがこみ上げてとまりません。それをかき消すために大声で叫びたくなるのです。
私はそのような時、いつもモモの名前を呼んで切り替えを行っていました。名前を呼ぶことで、モモを可愛がるモードに頭が切り替わるからです。
モモは実家で飼っていたので、自宅にいる時には直接モモがそこにいるわけではありません。けれども、アーッと言いたくなった時に独り言であったとしても名前を呼ぶと、頭の中にはモモの姿が! その可愛さによって、嫌な過去はどんどんと記憶の底へ沈んでいきます。
そういう習慣があったためか、いまだに「モモ」という言葉は私にとっての呪文のようなもの。人前ではさすがに声にすることはできませんが、心の中でそっと呼ぶだけでも効果は抜群です。
現実逃避でもいいじゃないか
ここまでに書いたように、モモは死んでもなお私を癒してくれる存在です。ただ、これは現実の世界では言いにくいんですよね。いまだに死んだ猫のことを考えているなんてペットロスの状態ではと心配されそうで。
私の感覚としてはそうではないんですよ。亡くなった祖父母と出かけた場所がテレビで流れた時に思い出に浸ったり、ピンチの時に心の中で「おじいちゃん、おばあちゃん見守ってて」と思ったりするのと同じ感覚です。
とは言っても、結局は私がしているのは現実逃避なのかもしれません。けれども、しんどい時にはそこから遠ざかるのは別に悪いことではありません。その結果、癒されてその後の日常が平穏に過ごせるのならそれで何の問題もないですよね。
私はこれからも生活の中でモモのことをたびたび思い出すことでしょう。この記事では名前を出していないのですが、もちろん、先住猫のチョコ(仮名)も一緒です。
猫と暮らした日々は、たとえその猫が虹の橋を渡ったとしても私たちに癒しを与えてくれます。皆様も大切な猫ちゃんたちとの素敵な生活をお過ごしください。
〈関連記事〉
亡くなった猫の気配がする~モモに会えた理由は?~
〈関連記事〉
【読書記録】『ネコの住所録』・群ようこ