本日とりあげる本は三浦しをんの『仏果を得ず』(双葉文庫)です。2014年度には大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本(大阪ほんま本大賞)を受賞したこの作品についてあれこれ書いてみようと思います。
『仏果を得ず』とは
『仏果を得ず』は、文楽の世界に飛び込んだ若者の成長を描いた小説です。
主人公の健(たける)は学校行事で文楽を鑑賞したことをきっかけに大夫の道へ。まだまだ駆け出しの彼の前には、仕事に恋にと様々な壁が立ちはだかります。しかし、それに真摯に向き合うことで健は大夫として成長していきます。
ちなみに文楽をとても簡単に言ってしまうと、江戸時代の台本をもとに演じる人形劇のこと。人形を操る人、台本を語る人、三味線を弾く人。三つの役割がある中で、健がしている大夫は語る人です。
伝統芸能の世界が描かれているというとなんだか難しそうに感じる人もいますよね。けれども、あくまでもメインはその世界で主人公がどのように成長するのかという点。青春小説系が好きな人なら十分に楽しめると思います。
主人公に親近感を感じる
私の中には昔から次のようなイメージがありました。
「伝統芸能の世界は閉ざされた世界で、舞台を作る側の人間はその家柄に生まれた人が代々に継いでいるのだ。」
歌舞伎の片岡愛之助さんなどは一般家庭のご出身だと記憶をしているのですが、そういう例は極めて稀だという印象です。だから、文楽でもきっとそうなのだろうなと思ってこの小説を読み始めました。
ところが、この小説の主人公は一般家庭出身。子供の頃は文楽の世界とは縁もゆかりもありません。初めて文楽に触れたのが文楽鑑賞教室だったのです。
大阪には国立文楽劇場というところがあり、そこで毎年特定の期間に行われるのが学生向けの文楽鑑賞教室。文楽を鑑賞するのはもちろんのこと、人形の動かし方の説明をしてくれたり学生を舞台にあげて実演させてくれたりするのです。
私が通っていた学校からも文楽鑑賞教室に行ったことがありました。朗々と響き渡る声、お腹まで振動が届く三味線の音、一体の人形を三人で操る一糸乱れぬ姿。その世界観に強く引き付けられたのを覚えています。
健もあの時の私と同じように感動をしたのでしょうか。そう思うだけで一気に主人公に親近感を感じます。
お気に入りの人物は兎一郎
先ほどから書いているように主人公は健(たける)なのですが、読んでいるうちに他の人物により強く感情移入するのはよくあること。私の場合はそれが兎一郎(といちろう)でした。
文楽の世界では、大夫(語り手)と三味線(弾き手)はコンビを組んで練習して舞台に出るそうです。しかし、三味線の若手で実力が折り紙付きにもかかわらず兎一郎に特定の相方はいません。
何か訳ありっぽくて気になりませんか? 私はその罠に思いっきりハマりました。
一匹狼的な存在でプライベートも謎に包まれている兎一郎。師匠の指示により健と組むことに。すると、少しずつ彼のことが明らかになるのです。
・兎一郎の家族のこと。
・兎一郎の元相方のこと。
・そして、兎一郎が特定の相方を持たないのは何故かということ。
秘密のベールが少しずつはがされていく感じがたまりません。
この小説は主人公の成長を描いていることは間違いないのですが、同時に過去に縛り付けられた兎一郎がそこから抜け出す成長物語でもあるのだなと感じました。
人物の把握には時間がかかる
この小説の世界観はとても魅力的なのですが、少し困ることがありまして…。
それは、人間関係をつかむのに時間がかかること。
兎一郎(といちろう)、銀大夫、幸大夫、亀治、蝶二などなど。
いかにも伝統芸能の世界の名前だというものが並んでいて誰が誰やら混乱してしまいます。この人は大夫でこの人は師匠でなどと頭の中で整理していると、なかなか先のページに進めません。
最終的にはA4用紙に人物相関図を書いてそれを見ながら小説を読み進めました。普段、読書をする時にはなかった体験です。
地名を知っているとより楽しめる
この小説は若者の成長譚としても楽しめるし、文楽の世界に生きる人々について知ることができる楽しみもあります。それに加えて、大阪に住んだ経験のある人にとってはお馴染みの地名が出てくるという楽しみ方もできるのではないでしょうか。
国立文楽劇場を出てから自宅に向けて千日前通りを歩くと聞くと、あの道を歩いているんだなと想像が広がります。
健の師匠の自宅が帝塚山だと聞くと、あのあたりは高級住宅街のイメージなので師匠が住んでいるのはなるほどと思えます。
兎一郎が豊中の緑地公園に住んでいると聞くと、地下鉄御堂筋線に乗って劇場まで通っている様子が脳裏に浮かびます。
ここに書いたのはあくまでも一部。なかにはもっと地元感を感じる場所も。
地名を聞いただけでその町の雰囲気がわかるので、世界観にどっぷりハマるのにはもってこいですね。
大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本というだけあって、大阪の街と文化を存分に堪能できました。